夏休みに帰省すると、実家の両親に疲れている様子がありました。
80歳近くなる父は、亡くなった兄(私の伯父)の遺産を整理する立場になっていて、珍しく弱音を吐いていました。
父を手伝うため、法務局に行って不動産の登記簿を確認しました。登記簿だけでは相続する権利のある人を完全に特定することはできず、遺産分割に関する合意を形成することはかなり困難です。不動産の処理だけでなく、他にもやるべきことが山のようにあり、疲れとストレスで父が参ってしまわないかと心配になりました。
兄弟姉妹の関係が平穏であるのは、整理した遺産をすべて均等に分配する方針を父が示しているからです。息子ながら「エライ!」と褒めてあげたいところですが、父親に「エライ!」と声をかけるほど偉くないので、心の中に留めておきました。
法務局や銀行を回って実家に戻ると、父親は
「均等に分配する方針は変えないけど、それを考えれば考えるほど、疲れるな」
と言いました。
「そりゃあ、そうだよ。労力の分を評価してもらってもいいんじゃないの」
と私が言うと、父は
「それは、もめる元になるからやらない」
と断言しました。
しかし、時間が経ってまた別の問題で頭を悩ませていると愚痴めいた言葉も出てしまいます。そこで
「親の背中を見て子供が育つと思えば、少しはやる気が出るんじゃないの」
と言ってみました。すると父は表情をパッと明るくして「そうだな」と言いました。
私の一言で父が報われたとは思いませんが、取り組む気持ちに変化はあったかもしれません。
新人や20代の頃に「なんでこの仕事を私がやらなければならないのだろう」と思った経験はだれにでもあると思います。
他の人でも出来る仕事
やっても評価につながらないように思える仕事
誰かがやらなければいけない事は分かるけど、出来れば自分に回ってきて欲しくない仕事
よく見ていると、そういう仕事をさりげなく引き受けている人がいることが分かります。一方で、職務命令だからと仕方なしにやっている人もいます。経営者や管理者の視点では、どちらの人にも声をかけ「報われている」「見てもらっている」という気持ちになってもらうことが大切です。
雑事をさりげなく引き受けている人が必ず出世するわけではなく、それらの雑事を巧妙に避けながら出世の階段を上る人もいます。しかし、雑事を人に押し付けるようにして出世した人が役職を離れると、周りから人がいなくなる傾向があるようです。
久しぶりに親から教えを受けたので、実践面でも忘れないようにしようと思います。
追伸
ことわざ:親の意見と茄子の花は千に一つも仇はない
「仇(あだ)」は「徒」であり、なすには実を結ばない「徒花」はない、ことから来たそうです。
(今日まで、「仇はない」でなはなく「無駄はない」だと思っていたことを白状します…。)