今月は月の初めと後半に「論理と感情」について考えさせられるニュースがありました。
(『ISO通信』は2019年7月号で4年目に入りました!!)
「犬の肉を食べる文化圏の人に対して、私は文句を言いません。だから鯨の肉を食べる文化を否定しないで下さい」
反捕鯨派の人に対するお願い(というか主張)をネット上で読みました。
頭では「その通り」と考えるのですが、「犬はやめようよ」と思う気持ちがあります。
だって、犬がかわいそうじゃないですか。
と言っておきながら、
「鯨がかわいそうという理由で捕鯨に反対するのは論理的でない」と主張したくなることもあります。
なんて身勝手なんだろう、と思うわけですが、世の中、論理と感情の両方で成り立っていることを理解しないと対立は激化してしまいます。
例えば、芸人と会社の対立。
吉本興業と芸能人の間には雇用類似的な関係があり、「闇営業の禁止」や「反社会的勢力との接触禁止」は明文化されていなくても慣習法的な規則になっていると仮定します。
その場合、ルールに違反した人が処分されることは論理的に正しいことです。
しかし、罪の程度に対して罰が大きすぎる場合(あるいは軽すぎる場合)は、論理的とは言えません。
今回のケースでは「反社勢力との接触によって会社の名誉を傷つけられた」「ルール違反の闇営業をしていた」「しかも金銭は受け取っていないとウソをついていた」ということで、会社側が感情的に「許せない」との気持ちになってしまい、必要以上に罰が大きくなってしまったのかもしれません。あるいは、罰の大きさとしては「契約解除」が相当であるのに、パワハラ的な圧迫があったようなので「処分が厳しすぎる」と世間が感じているのかもしれません。
個人的な感覚ですが「処分を撤回する」と聞いたときに“闇営業も反社会的勢力との接触もOKということ?”と疑問に思いました。論理とは関係なく、感情だけで判断しているように見えます。
仮定を少し変更して、売れていない芸人の闇営業は会社側も黙認していたとします。その場合、闇営業自体は大きなルール違反ではなく、売れっ子芸人が闇営業をしたことに腹を立て、感情的になってしまったのかもしれません。
二人のタレントの謝罪会見の後、社長が以下のように発言していたらどうなっていたでしょう。
「君たちのしたことに対して、今回は契約解除という処分をせざるを得ない。甘い処分をしたのでは、吉本興業の姿勢が問われる。反省している姿を世間が許してくれる日が来たら、また一緒にやろうじゃないか」
あるいは
「契約書の締結や規則を明確にしていなかった会社側にも責任はある。よって今回は、○○ヶ月の謹慎処分とする」
そんな対応がいいのではないかと思ったのですが外野からは何とでも言えます。
私を含め、修羅場の外にいる人が結果を見てから「論理的に考えて、こうあるべきだ」と評論するのは簡単なことです。しかし自分が当事者になっていたら、感情が先に立ってしまい、論理的に考えることなど忘れてしまうかもしれません。
リーダーを育成するには、若いうちから修羅場を体験させるのがよいと言われるのは、場数を踏むことで感情をコントロールすることができるようになるからでしょう。
まだまだ、修行の身です。